言葉についてもう少し書きたい

言葉の不完全さについて、書いているうちに、昔のことなどが浮かんできて、つい、脱線してしまったようだ。こんな調子だと、言葉だけでなく、論理さえ疑われそうだ。私の場合、確かに、言葉以前に、論理に問題があるのかもしれない。恥ずかしいという気持ちがなくもない。ただ、私は、こんな調子で92年間生きてきたのだ。いや、生きてこられたのだと思うと、それほど、卑下することもなさそうにも思う。数えきれない人々と交わってきたが、特に、迷惑がられたり、嫌な顔をされた経験もない。そうは言っても、文章を書くとなるとねぇ。となる。おそらく、文章を書くことを生業としてこられた方々から見れば、私の書いたものなど、読むに堪えない代物に違いない。若い時、あるコミニティ誌の編集者から罵倒されたことが記憶にある。内容は、当方の手違いから、ミスを犯し不愉快な思いをさせてしまい、そのお詫びの手紙を認めたのだが、ミスを犯してしまった一部始終などを述べ、これからは、気を付けます、などと書き、最後に、「以上のような次第ですので、どうか、ご了承ください。」と結んだのだ。ところが、2~3日して、「お前たちの勝手な言い訳を押し付けられてたまるか」これはなんだと「ご了承」の文字に朱を入れて送り返されてきたのである。その頃は、文章の終わりには、よくこの言葉を使っていたので、深く考えることもなく使ってしまったのであるが、「言葉は、常に、受け取る側の立場を忖度して使わなければならない」といことを悟り、物書きを専門とされる方々の言葉に対する厳しさに感じ入ったことがあった。しかし、言葉は、文章だけではない。話し言葉についても同じである。とすると、自分の気持ちを相手に伝える際には、こちらの言葉を相手が、どのように受けとめるのかということを、話をする前に、忖度しておかなければならないということである。

自分の気持ちを、言葉で正確に表現することだけでも大変にむつかしいのに、やっと見つかった言葉が、聞く相手にどのようにうけとめられるかを考えなければならないとなると、果たして、日常会話というようなものが成立するのであろうかとも思う。それにもかかわらず、私たちは、その難しいことを毎日、何気なく行っているのである。ということは、我々の日常会話というものは、誤解や反発などの渦巻くものとなっているのであろうか。なお、すべての会話がスムーズに行われているのであれば、我々一人一人は、立派な文章は書けなくても言葉の達人であるということになる。言葉は難しい。

 私が、これまで述べてきたことを整理すると、次のようになる。

➊ 自分の内面を正確に言葉で表現できない。言葉は、不完全なものだから。

➋ 言葉を発する際は、相手のことを忖度する。

➌ ということは、聞く相手も、話ている人に対して忖度する。

それで、社会は、一応、平穏に維持される、ことになる。しかし、よく考えてみれば、これは、大変、恐ろしいことではないか。というのは、そこには、真実というか、本当のことがない。もともと、不正確なうえに、忖度というオブラートに包まれているからである。もし、どこかで、チョットした綻びでも出ようものなら、たちまち、平穏な社会は、崩壊してしまうのではないか。お互いに、信じ切っていた社会が、嘘とは言わないまでも、真実の社会ではなかったと一人一人が悟った時の社会は、どのようなことになるのか想像もできない。ということは、世界中が一斉に崩壊するということはなくとも、社会の、あちこちで、綻びが現れ人間関係が崩れることを避けることはできない。これは、運命的とでも言えるのではないか。現在、個人で、または、小集団で起きている夥しい数の争いは、現在の我々の言葉の使い方に起因しているのかもしれないと思うとともに、私たちは、平穏な生活を熱望しているけれども、これは、人間社会の本質的なものであり、これを、避けることは不可能であるということになる。国家間の争いも然りである。{では、常に、本当のことを正直に言っていればよいかというと、それはまた、別の問題である。}