若い時から、頭から離れないこと

本題の前に、先に「初めに」の中で述べた、「経験が言う」と事について、誤解を招きそうだと、気が付いたので少し弁明をさせて頂きたい。私の、経験に何らかの価値があるというようなことを言おうとしているのではありません。浅才非学の井の中の蛙の経験など、何らかの価値があろうなどとは思ってもいないことを明らかにした置きたいこと、それにも拘わらず「経験がものを言う」などと述べたのは、私の拙い経験でも、世界でただ一つしかない、と、いう思いからに過ぎないこと、であるので、誤解なきようお願いしたい。

 さて、本題の「頭から離れないこと」なのだが、それは「言葉」である。子供の時から、言葉には、悩まされてきたのに,90歳を超えても一向に良くなるどころかますます悪くなっているので困っている。一番、分かりやすいのは、体調を崩し病院行き、先生に、自分の体の具合の良くないことを正確に伝えられないのだ。例えば、「頭が痛い」とは言えても、医師から、どのように痛いのか?と聞かれたら、それが、明確に答えられない。考えてみると、痛みだけではない。「美味い」ということも、どう美味いのか説明ができない。そこで、この世の中で「言葉」ほど不完全なものはないのではないかなどと考えたりする。しかし、「言葉」は、大切である。今の社会は「言葉』なくしては成り立たないのだから。そんなことを、考えていると、最近、政府の偉い方々が、しきりに「政府の責任でやる」ということを多発するようになっているように感じるようになった。そこで、私は、皆さんにお尋ねしたい。「責任を取る」とは、どういうことかと。昔、武家社会では、責任を取って腹を切った、というように聞かされてきたが、腹を切ったら、その人のしたことが原因で死んだ人が生き帰ったとでもいうのであろうか。さすがに、現在は、腹切りではなく、たいていの場合、「金銭」で償われているが。被害にあった方々は、それで救われ、責任を取ったということになるのだろうか。そこで、私は、考えた挙句「責任」をとれるものなど、この世にはないのではないか。

そもそも、「責任」とは、「とる」ものではなく、「果たす」ものではないのか、と。

しかも、政府の支出する賠償金は、税金である。国の仕組みがそうなっているからということで、国民も、納得しているのかもしれないが、事実は、組織の力を借りた一部の人間が犯した過ちが原因であることは事実である。振り返ってみれば、私が若いころ「俺が責任を取るから、いうようにやれ」 という上司は、決して信用するな、と若い者たちに忠告していたのを思い出す。言葉とは、不完全でまことに恐ろしいものであるとは、思いませんか。