最近、特に、気にかかること{戦争について}

言葉について、あのように書いてしまえば、自分でも、これは、妄想の類なのでは、などと思えてきた。人間は,死期が迫ると、いろいろな妄想を抱くと言われる。私も、その域に近づいて来たのかもしれないなどと思いながら、言葉の問題から離れ、最近、特に気に掛かることについて、書きたい。

「国家間の戦争」のことである。毎日のニュースに接していると、国際関係は、第二次世界大戦後、最大の難局に直面しているように感じるのを誰も否定はしないだろう。そた。の上、国連が機能不全に陥っていることも大きい。政府が、増税をしてでも、軍備の充実{?}拡充を図ろうとしていることには、一応の理解が得られているのかもしれない。しかし、私達の世代は、満州事変,支那事変、{あえて、このように呼ぶこととした}大東亜戦争第二次世界大戦}の時代を生きてきたので、戦争が、どのようなものであるかを思い知らされているため、ニュ―スの受け止め方が少し違うように思うことがある。

 まず、いやいやながら、当時を思い出して見よう。私は、満州事変のことは、幼すぎて何も記憶していない。小学校に入学したのは、「尋常小学校」で あった と思う。しばらくして、大東亜戦争{初めは、そう呼ばれた}が始まると、国民学校に変わった。その頃から、私達の生活は変わり始めた。地域からは、若い男性が、当時、「赤紙」と呼ばれた、「招集令状」で呼び出され、消えていった。時の前後まではわからないが、やがて、「国民総動員令」がでたとかで、それは、国民学校の生活も例外ではなかった。教科は一応教えてもらったが、少しずつ、「勤労奉仕」という時間が増えていった。その内容は、農作業であり、山林作業などである。つまり、働き手がなくなった分を手助けする仕事である。なお、学校では、体育の時間が増え、その時間の多くは、「竹槍」{{破竹の先をするどくカットした1.5メートルくらいのもの}で、敵兵に見立てた藁人形を突き刺す訓練に割かれた。子供の力では、なかなか、うまく、突き刺すことができなかった様な記憶がある。それだけではない。子供でも、「教育勅語」の暗記は必須、そのうち、「軍人勅諭」も暗記を強いられた。暗記ができているかどうかは、勤労奉仕の後、一人一人,暗唱させられた。少しでも、間違えると「そんなことで、戦争に勝てるか」と、怒鳴られ、竹の鞭が飛んできた。ある日、教育勅語のテストが行われていた。やがて、私が、指名され、教育勅語の暗唱を始めたら、先生が、「お前は、軍人勅諭をやれ」と命じられた。急に、変更されたので、つい、慌てて、出だしを間違えてしまった。熱い夏日であった。上半身裸で作業していたので、その、汗の流れる背中に、竹の鞭が、容赦なく飛んできた。息が止まるかと思われるほど痛かった。家に帰ったら、親から{どうしたのか}と聞かれたが、何も言わなかった。先生を恨む気持ちなど微塵もなかった。背中は、みみずばれに腫れ、1週間ほど痛んだのを覚えている。それでも、私は、思った。勝つまでだ。こんなことで負けてたまるか、と。それから、戦争は、ますます、厳しくなり、学徒動員はおろか、志願兵の年齢も引き下げられた。そこで、私は、「予科練」{あの有名な}を受験するといって、親を困らせた。お前は「若すぎる」という言葉には「血判を押してでも行く」といいはった。「死ぬのは怖くないか」という言葉には、「お国のために死ぬなら本望だ」と、言い張った。これが、当時の銃後の民の心意気であったのだ。食糧事情は、日に日に逼迫していった。そして、油脂焼夷弾の被害があり、校庭には、日本の戦闘機が、B29爆撃機に向かって放ったであろう薬莢が落ちてくることもあった。そのような状況でも、お上が言う「我が国は神国である。そのうち、神風が吹く」という言葉を信じていた。「負ける」という言葉は禁句であった。

 しかし、戦争は負けた。

 昭和20年{1945}8月15日は、雲一つない晴天であった。正午に、陛下の玉音放送があるというので,皆、ラジオの前に集まった。ラジオと言っても、かろうじて、音が聞こえるといった程度のもので、とにかく、雑音が非常に多く、常に、ザーザーというような音がしていた。やがて、正午になり、玉音放送が流れたが、多くの人の後ろの方にいた私には、何を言っているのか分からなかった。放送が終わっても、しばらくは、ラジオの近くの大人達は,、皆、黙って,俯いているだけであった。しばらくして、大人達が、後ろの方で、よく聞き取れなかった人達に対し「戦争が終わった。負けた」と叫んだ。

それを、耳にした私は、急に、膝頭が震えだし止まらなくなってしまったのを、未だに、はっきりと覚えている。

 その翌日から、社会は、激変した。今まで、聞いてきたことは、皆、嘘であり、明日からは、アメリカ人が入ってきて、我々の生活がどうなるかもわからない、という。

 ここから先は、省略する。

 こうして、私は、戦争について、多くのことを学んだ。特に、次に掲げるいくつかの事実は、戦争というものの本質を示すものとして、重要であり、我々が、戦争の話をする場合には、お互いに、必ず、そのことを基本に据えて話さなければならないと考える。このことを蔑ろにした戦争の話は、全て、茶番である、と、私は考える。

➊ 先の大戦では、国土の荒廃を招き、多くの人々を戦場で失い。銃後では、広島や長崎の原爆被害は言うに及ばず、戦場と化した沖縄の惨状、空爆による各地の被害、などに加えて、見知らぬ土地に疎開という強制避難をさせられた学童達の中からも、多くの童が、病や栄養失調などのため、命を失ったと言われるなど、筆舌に尽くせない地獄を経験した。

➋ 戦後、問題視された、一例を取れば、南京虐殺{内容について述べる知識は私にはない}などに、代表されるように我が国の軍隊が行ったという非道行為について、戦場に赴いた先輩の体験談などから、その規模や内容には違いがあるかも知れないが、存在そのものは、事実であったと認めざるを得ないと思われることである。戦争をしている以上、同胞以外は敵と見なさないと、いつ、自分がやられるかもしれないという恐怖は、戦場にいるすべての人が抱いたとしても、何ら、不思議ではないし、国際法違反だなどと言っていたのでは、やがて、自分が殺されるだけだと思うのは、自然なことではないかと思わざるを得ないからである。戦争の相手方も、おそらく同じように考えているであろうことは容易に想像できることである。最近、ニュースでよく耳にする国際法違反などと、叫んでみても、所詮、第三者の戯言のように聞こえること。つまり、本当の戦争とは、何でもありの世界ということだ。この世の中に、「国際法に反する殺人はしない」などという戦争などあり得ないという現実である。

➌ 今のウクライナで起こっている戦争を見れば、そのことは、歴然としている。今後、我が国が、侵略を受けるとしたら、そうした国が相手であることは確実である。したがって、戦争を回避しようと、国際法だの、法の元の統治、などと言ってみても、相手にされるはずがないと考えるのが自然というよりも、当然、そう考えなければならないということではないか、ということである。

 

➍ 戦争というのは、一人で行うものではない。国と国とが戦うものだ。ということは、政治を預かる一部の人達が、推し進めるものである。独裁国ならいざ知らず、民主国家の場合は、選挙で選ばれた方々で、国民の代表として行うのであるが、戦前の我が国も歴然とした民主国家であった。では、第二次世界大戦は、我が国民の総意に基づいて行われたのであろうか。確かに、小学生の私でさえ、命をささげても良いとまで言った位だから、大人達は、すべて、その気で戦争と向き合っていたのであろうか。戦後、明らかにされた諸々の政治中枢の話などを伺っていると、我が国は、満州事変頃から、すでに、軍部による独裁国家と言っても良いような状況であったのではないかと思える。すると、民主国家と言っても、中に、強いリーダーが生まれると、いつの間にか、そのリーダーを中心とした独裁国家ができてしまうということではないか。{今の政治を見ていると、そう思えて仕方がない}だから、そのリーダーが誤った方向に進み始めたら、際限なく、誤った方向に進んでいく可能性があるということで、民主国家では戦争は起こらないということにはならないということだ。この見方が、もし、正しいとしたら、民主主義国家が引き起こす戦争という可能性も十分存在するということになる。 「万機公論に決すべし」は、聖徳太子以来の政治の基本だと思っていたが、万機公論によって決した政治など、我々は、見たことがないのではないか。{民主主義という欺瞞}については、別に書いてみたい。

 要するに、戦争というものは、一部の人達の過ちが引き起こすものだということである。「第二次世界大戦」の責任は、東京裁判戦勝国によって裁かれたが、その最大の被害者である我が国内で、その責任を問うたということは、未だに、耳にしたことがない。しかし、先の戦争が、一部の人達の言動によって齎された惨禍であったという事実を私は決して忘れることができない。

 

戦争とは、以上のような、極めて、非道、非情なものである。そして、私達は、一億総玉砕を覚悟しても、国を守ることができなかったのである。我々が、戦争を考えるとき、かって、経験したこの事実を無視して議論することなどどうしてもできない。確かに、今は、アメリカという世界一の強国が後ろに控えてくれているので、状況は、かってとは大きく異なる。しかし、独立国として、戦争を行う以上、少なくとも、国民総動員で事に当たるのは、当然のことである。と、私は、思う。

そうした思いの上に立って、いま、戦争が、何時、始まってもおかしくないと危惧される状況にある、という事への対応について考えてみると、兵器の拡充だけで対応しようとすることが、果たして、正しいことなのであろうか。そして、ただ、それだけのことを始めようとしても、いちいち、総理が「政府には、国民の生命と財産を守る責任がある」と、説明しなければならないという事に、何か、不安のような感情にかられるのである。

私の不安は、兵器の拡充という対応策だけにあるのではない。仮に、その一段と進化した兵器を拡充するのはやむを得ないとしても、それらを扱う人のことについて、一切触れられていないことである。と、言う事は、今の、30万規模の自衛隊員で、これに当たるという事になる。政府が、それでよいというのであるから、それだけの計算をした上でのことであろう、とは、思いつつも、その辺の情報が、一切耳に入ってこないので、不満と不平が生じる。  

私は、常に、30万程度の自衛隊で、北は、北海道から沖縄までを守ることが可能かという事について疑問を抱いているものだから、ますます、不安が増幅されるのであろう。

何時、戦争が始まるかもしれないという緊迫した状況での対応である。当然、自衛隊の中は緊張に満ちているであろうと推察している。いろいろな、我々には、想像もできないような、シュミレーションが行われてもいるであろうことは、田舎に住む老人にも想像がつく。だのに、この緊急時に、その中心的存在であるはずの自衛隊員のことが、何故、表に出てこないのか不思議でならないのである。

もし、幸運にして、このブログが、その道の専門家のお目を汚す機会に恵まれるようなことがあれば、恐れながら、この、田舎の老人にもわかるように以下のようなことについて説明して頂きますようお願いしたい。

➊ 自衛隊員も人の子である以上、長い間には、病に伏すこともあるであろうし、また、思わぬ怪我に遭遇することもあると思われる。訓練中の事故により犠牲に会われる方々も、しばし、報道されるとおりである。これらのことは、自衛隊に関わらず、どこの組織においても同じである。そして、もし空席ができたなら、必ず、あと補充を行っている。でなければ、その組織が、弱体化し、やがては、滅びるてしまうしかないからである。そこで、第一の質問は、現在の自衛隊のあと補充は、確実に行われているかについて教えてほしい。

➋ このことは、戦争中においても同じである。というよりも、この上に、戦争による怪我、死亡という痛ましいことによる空席が、嫌でもついて回ると覚悟しなければならない。その時の隊員補充について、どのように考えているのか教えてほしい。兵器は、近代化し拡充していても、それを、操る兵員がいないでは、話にもならないではないか。 そして、兵器が近代化すればするほど、戦争時のあと補充は困難になるであろうと想像するので心配である。先の大戦では、予備兵という制度があったうえ「赤紙」で市井の者を次々と呼び出し、兵員の補充を行ったが、仮に、その方法を取ろうとしても、現状のままでは、何の役にも立たないであろうと思われるからである。それは、先の大戦でも、呼び出した者の中には、鉄砲の扱い方を知らない者が多数いたということであるから、高度化した兵器を操る現代の戦争では、なおさらである。しかも、予備兵の制度もない中で、例え、それが防衛戦争であったとしても、戦争にと突入することなど、無謀としか言いようがない。

「いや、我が国が戦争を始めることは絶対ない、戦争になるとしても、それは、どこかの国から攻撃を受けた時のみであって、防衛の戦いのみである」から、これで十分だという事なのだろうか。もし、そのように考えておられるのなら、あまりにも楽観的過ぎはしないか。現に、ウクライナ戦争を、見るとよくわかることのように思えるのだが。

だから、私は知りたい。もはや、戦争は避けられない、と観念した場合には、兵器の拡充以前に、真っ先に、自衛隊の隊員のことを考えるべきではないのか。自衛隊のことを今のままにしておいて、戦争のことを語るなどという事があり得ることとは、どうしても考えられないのである。この考え方のどこに誤りがあるのであろうか、そこが知りたいのである。

 悔やんでも、悔やみきれない、先の大戦のことや、今、我が国が直面する理不尽な戦のことを考えていると、昨夜は、とんでもない夢を見た。

 

我が国を取り巻く、いわゆる、周辺国すべてが加盟する、「相互不可侵条約」が成立した、という、夢であった。そのことに、全力を捧げた総理の苦労は、筆舌に尽くせないものであった。勿論、我が国が払った犠牲も大きかった。そのうち、特筆すべきは、戦後、一貫して、我が国を守ってきてくれた米国との「安全保障条約」を解消し、我が国にある米軍の基地もすべて解消したことである。それでも、周辺国との戦争は、回避されたということは、国民すべての喜びであった。深く、考えれば、条約ができたとしても、すべての加盟国が、誠実に、それを守ってくれるかという保証もなく、その誠実さに,いささか疑問を抱かざるを得ない国も存在するけれども、条約を無視して、侵略戦争を始めた場合は、他の加盟国、全部が、被侵略国を応援するという条項も加えられたことは、大きな成果であった。国民のすべてが、それを主導した総理に感謝の誠をささげ、永久に記念するという。ところで、目が覚めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

言葉についてもう少し書きたい

言葉の不完全さについて、書いているうちに、昔のことなどが浮かんできて、つい、脱線してしまったようだ。こんな調子だと、言葉だけでなく、論理さえ疑われそうだ。私の場合、確かに、言葉以前に、論理に問題があるのかもしれない。恥ずかしいという気持ちがなくもない。ただ、私は、こんな調子で92年間生きてきたのだ。いや、生きてこられたのだと思うと、それほど、卑下することもなさそうにも思う。数えきれない人々と交わってきたが、特に、迷惑がられたり、嫌な顔をされた経験もない。そうは言っても、文章を書くとなるとねぇ。となる。おそらく、文章を書くことを生業としてこられた方々から見れば、私の書いたものなど、読むに堪えない代物に違いない。若い時、あるコミニティ誌の編集者から罵倒されたことが記憶にある。内容は、当方の手違いから、ミスを犯し不愉快な思いをさせてしまい、そのお詫びの手紙を認めたのだが、ミスを犯してしまった一部始終などを述べ、これからは、気を付けます、などと書き、最後に、「以上のような次第ですので、どうか、ご了承ください。」と結んだのだ。ところが、2~3日して、「お前たちの勝手な言い訳を押し付けられてたまるか」これはなんだと「ご了承」の文字に朱を入れて送り返されてきたのである。その頃は、文章の終わりには、よくこの言葉を使っていたので、深く考えることもなく使ってしまったのであるが、「言葉は、常に、受け取る側の立場を忖度して使わなければならない」といことを悟り、物書きを専門とされる方々の言葉に対する厳しさに感じ入ったことがあった。しかし、言葉は、文章だけではない。話し言葉についても同じである。とすると、自分の気持ちを相手に伝える際には、こちらの言葉を相手が、どのように受けとめるのかということを、話をする前に、忖度しておかなければならないということである。

自分の気持ちを、言葉で正確に表現することだけでも大変にむつかしいのに、やっと見つかった言葉が、聞く相手にどのようにうけとめられるかを考えなければならないとなると、果たして、日常会話というようなものが成立するのであろうかとも思う。それにもかかわらず、私たちは、その難しいことを毎日、何気なく行っているのである。ということは、我々の日常会話というものは、誤解や反発などの渦巻くものとなっているのであろうか。なお、すべての会話がスムーズに行われているのであれば、我々一人一人は、立派な文章は書けなくても言葉の達人であるということになる。言葉は難しい。

 私が、これまで述べてきたことを整理すると、次のようになる。

➊ 自分の内面を正確に言葉で表現できない。言葉は、不完全なものだから。

➋ 言葉を発する際は、相手のことを忖度する。

➌ ということは、聞く相手も、話ている人に対して忖度する。

それで、社会は、一応、平穏に維持される、ことになる。しかし、よく考えてみれば、これは、大変、恐ろしいことではないか。というのは、そこには、真実というか、本当のことがない。もともと、不正確なうえに、忖度というオブラートに包まれているからである。もし、どこかで、チョットした綻びでも出ようものなら、たちまち、平穏な社会は、崩壊してしまうのではないか。お互いに、信じ切っていた社会が、嘘とは言わないまでも、真実の社会ではなかったと一人一人が悟った時の社会は、どのようなことになるのか想像もできない。ということは、世界中が一斉に崩壊するということはなくとも、社会の、あちこちで、綻びが現れ人間関係が崩れることを避けることはできない。これは、運命的とでも言えるのではないか。現在、個人で、または、小集団で起きている夥しい数の争いは、現在の我々の言葉の使い方に起因しているのかもしれないと思うとともに、私たちは、平穏な生活を熱望しているけれども、これは、人間社会の本質的なものであり、これを、避けることは不可能であるということになる。国家間の争いも然りである。{では、常に、本当のことを正直に言っていればよいかというと、それはまた、別の問題である。}

  

若い時から、頭から離れないこと

本題の前に、先に「初めに」の中で述べた、「経験が言う」と事について、誤解を招きそうだと、気が付いたので少し弁明をさせて頂きたい。私の、経験に何らかの価値があるというようなことを言おうとしているのではありません。浅才非学の井の中の蛙の経験など、何らかの価値があろうなどとは思ってもいないことを明らかにした置きたいこと、それにも拘わらず「経験がものを言う」などと述べたのは、私の拙い経験でも、世界でただ一つしかない、と、いう思いからに過ぎないこと、であるので、誤解なきようお願いしたい。

 さて、本題の「頭から離れないこと」なのだが、それは「言葉」である。子供の時から、言葉には、悩まされてきたのに,90歳を超えても一向に良くなるどころかますます悪くなっているので困っている。一番、分かりやすいのは、体調を崩し病院行き、先生に、自分の体の具合の良くないことを正確に伝えられないのだ。例えば、「頭が痛い」とは言えても、医師から、どのように痛いのか?と聞かれたら、それが、明確に答えられない。考えてみると、痛みだけではない。「美味い」ということも、どう美味いのか説明ができない。そこで、この世の中で「言葉」ほど不完全なものはないのではないかなどと考えたりする。しかし、「言葉」は、大切である。今の社会は「言葉』なくしては成り立たないのだから。そんなことを、考えていると、最近、政府の偉い方々が、しきりに「政府の責任でやる」ということを多発するようになっているように感じるようになった。そこで、私は、皆さんにお尋ねしたい。「責任を取る」とは、どういうことかと。昔、武家社会では、責任を取って腹を切った、というように聞かされてきたが、腹を切ったら、その人のしたことが原因で死んだ人が生き帰ったとでもいうのであろうか。さすがに、現在は、腹切りではなく、たいていの場合、「金銭」で償われているが。被害にあった方々は、それで救われ、責任を取ったということになるのだろうか。そこで、私は、考えた挙句「責任」をとれるものなど、この世にはないのではないか。

そもそも、「責任」とは、「とる」ものではなく、「果たす」ものではないのか、と。

しかも、政府の支出する賠償金は、税金である。国の仕組みがそうなっているからということで、国民も、納得しているのかもしれないが、事実は、組織の力を借りた一部の人間が犯した過ちが原因であることは事実である。振り返ってみれば、私が若いころ「俺が責任を取るから、いうようにやれ」 という上司は、決して信用するな、と若い者たちに忠告していたのを思い出す。言葉とは、不完全でまことに恐ろしいものであるとは、思いませんか。

 

初めに

 親兄弟はおろか、妻にも先立たれ、かっての同僚達とも意思疎通が困難になり、今は、介護保険の初期の援助を受けながら独居を続ける92歳の老人の悩みは、やはり、社会との接触の少なさにあると思う。テレビをはじめ、パソコン、スマホは一応は使い、ある程度の情報は得ることができても、それらから、得られるものは、孤立していく一方の老人の姿の再認識と言ってもいいのではないか。

 しかし、そのような、状況に置かれても、92年という経験は、「老人の孤立」などということを素直に受け入れようとはしない。確かに、理解できない「若者言葉」「絵文字の氾濫する」スマホ、などに接すると、今の社会は、遠い遠い別世界のように感じるのはやむを得ない。

 そのような現状を理解しつつも、92歳の老人は思う。確かに、今は、激動の時代ではある。しかし、私達だって、世界大恐慌の中に生まれ、満州事変、支那事変、第2次世界戦争と命がけの激動の時代を生きてきたのだ。人間の歴史を繙くと、その時代の人々にとっては、すべからく、激動の時代であったのではないか。{激動の意味は、それぞれ異なるけれど}       

 そう考えると、情報の少ない老人であっても、92年の経験の強みを生かして、堂々と発言しても許されるのではないか。例え、今の社会に受け入れられず、老いぼれの寝言と笑われることもあるかもしれないが、92年の経験が、言わしめている、と、認識してくれるなら、それだけで、老人は救われるのではないか。そういう思いで、これから、徒然に老人の思いを綴っていきたい。